誰も考えるが、我々が道を尋ね、法を慕い仏を迫うて、様々な努力を重ねるという。まさにそう見えるものであるが、しかし私が、よし仏を追っているとしても、実はそれが、「仏が吾々を追い」、「仏に追われている」その姿なのではあるまいか。実は十分に追う力さえないのが、吾々の弱さである。だがそれを知るが故に、仏の方で吾々を追って離さぬ。だからこれが分ると、たとえ私が仏から遠いとしても、仏の力は吾々を遠くに置かぬ。吾々が如何に仏を追うとも、仏が吾々を追うその速度や強度にはかなわぬ。追うという自分の能動より、追われるという受け身の方が、大きいということが分かれば、も早や宗教の世界に入ったのだともいえよう。仏を追うことが、直ちに仏に追われていることなのである。「往生」というが、それは仏からの「来迎」にあずかることを意味する。
柳 宗悦『南無阿弥陀仏』より抜粋
昔、空也上人は、念仏の道を問われた時、『棄ててこそ』とただ一語いわれたという。仏法について、否、凡ての宗教につ...
名号に身を投げ入れる暮らしとは、何なのか。とこしなえに自己が休むことである。だから凡のゆる煩悩が、煩悩のままで...
真宗で仰ぐ阿弥陀如来を『お真向き様』という。真正面に、吾々に対して佇む御姿だからである。だが仏もまた私たちに向...
『御手』というのは、仏の御手でも、神の御手でも、菩薩の御手でもよい。私が何処に在るも、何処を向くも、居るその...
南無阿弥陀仏と称えるということは何なのか。称える自分もなく、称えられる六字も忘れ、ただ六字になりきることである...
南無阿弥陀仏と称えるということは何なのか。何か功徳を希ったり、酬いを求めたりする念仏なら、念仏とだにいうことは...
『六字』の名号を称えることは、身に余る悦びのはずである。何故なら、この易行の道で、凡夫を済度しようとする仏の慈...
「六字」というのは、南無阿弥陀仏の六字である。これを名号という。この文字を称えることを称名という。下凡の者を、...
平たくいえば、阿弥陀仏がこの私を、見初めて下さったというのである。だが誤読してはいけない。ゆめゆめ自分の自慢な...